アメリカの墓地は美しいイメージがありますが、現代の墓地になるまでに変化を辿ってきました。
大まかにみても、3~4段階を経て変化を遂げています。
最初の植民地時代には墓石だけの簡素なものでした。
そして、1830年代の墓地改革により田園・庭園墓地が登場し、
そこから約20年後には、田園・庭園墓地が東海岸から西海岸へと移していく中で、
地形的な影響もあり、芝の広場が特徴的な公園型墓地へ変化し、
最終的には20世紀にメモリアル・パーク型の墓地が登場しました。
このようにアメリカ人の死生観とともに、墓地も変化してきたのです。
植民地時代の墓は、“graveyard”と呼ばれ、死体遺棄場を意味するものでした。
田園・庭園墓地には“cemetary”、眠る部屋という意味のある言葉が一般的に使われるようになりました。
そして20世紀になると、墓地を示す意味が全くない“memorial park”という呼び名が生まれ、
「死」というものが隠蔽されるようになる過程が見て取れます。
植民地時代の墓は、墓石があるだけの簡単なお墓でした。
墓石は同じ方向を向き、厚みはなくはがれる粘板岩(スレート)でできていました。
キリスト教の信仰で、キリストが再臨するときに死者も一緒に目覚めるという信仰があったため、
キリストが現れる方角に死者を向かせて埋葬される習慣があったため、
墓石は全て同じ方向に向けられてたのです。
墓地は、他の部分との境の塀があるわけでもなく、
教会の役割を果たしていたミーティングハウスの近く、生活圏の中に建てられていました。
日常生活の一部ととらえられており、特別に神聖な場所という意識はなかったようです。
この植民地時代の墓の形式は1830年代まで継続されました。
その後、アメリカが独立して半世紀が経つと、アメリカの墓地に改革が起こりました。
墓石だけで殺風景な200年以上続いた墓地から、美しい庭園のような田園・庭園墓地が誕生したのです。
現代の墓地のルーツとなっています。
田園墓地は古い伝統のしがらみのない全米に広がったのです。
田園墓地には立派な門があり、塀で囲まれていました。
植民地時代の墓地と違い、墓地は町の生活圏の中から、郊外に移動し、
景観が美しくデザインされ、家族のモニュメントや彫刻が施されるようになりました。
また、宗派など何も関係のない民間の墓地が誕生しました。
田園墓地は、フランスの墓地改革で誕生したペールラシェーズ墓地を取り入れたものでした。
その第一号というのは、ボストン郊外ケンブリッジの英国式風景庭園のマウント・オーバーン霊園でした。
そして、田園墓地は東海岸から西海岸に伝搬される中で、地形的な変化および人々の嗜好の変化に伴い、
木が沢山ありメランコリーな景観から、明るく開放的な芝の空間が特徴的な公園墓地へと変化していきました。
現在のアメリカのメモリアルパークは、ガイドブックにも載るように、
観光名所、都市公園、彫刻美術館、植物園までの役割を果たすように変化してきたのです。