エジプトのカイロ東のモカッタムの丘のふもとの「死者の町」には、立派な堂屋式の古いお墓が立ち並んでいます。 14世紀頃にお金持ちの市民たちが競い合って建てた豪華なお墓ですが、 イスラム教では普通だと、埋葬後、土を盛り簡単にレンガや棒を置くだけの、とても質素なお墓しか建てないのに、何故、ここでは立派なお墓が見られるのでしょうか? もともと、イスラム教は、アッラーを唯一神とする一神教で、神以外の偶像崇拝も、祖先崇拝も禁止されているのです。 お墓は、最後の審判の日に、アッラーにより天国行きか地獄行きか決められるまでの仮の場所にすぎないので、重要視されていません。 なのに、なぜ豪華なお墓が作られたのでしょうか? エジプトでは、古くはピラミッド時代に、祖霊崇拝の多神教宗教が数千年間続いていました。 多神教文化は農耕社会が生みだした宗教なのです。 農耕社会では、自然の恵みや豊かな土地があってこそ成り立つものですので、 人々は、豊かな水や温和な気候など農業を可能にするあらゆる自然の恩恵に感謝し、太陽や月、川、山、田、獣、鳥、蛇、サソリ等、色々なものを神として崇拝していました。 神のもつ性格も様々で、エジプト各地にはそれぞれの町を代表する神が崇拝されていました。 日本も農耕社会でしたので、同じように、山の神、川の神、雨の神…と色んな神様が神話に登場しています。 いわゆる神道です。 このように、エジプトでの農耕社会でも多神教、祖霊崇拝の文化が根付いていたのでした。 しかし、969年になり、エジプトの多神教の社会は、ファーティマ朝のイスラム勢力の支配下となり、 やむなくイスラム教を受け入れることになったという歴史があったのです。 イスラム教、ユダヤ教、キリスト教という一神教は、もともと農耕社会ではない過酷な砂漠で生まれたものです。 砂漠においては人々は、生きていくために、草原での遊牧か、砂漠を超えて商売をするしか術がありませんでした。 人々はそんな過酷な現実の世界を厭い、天国での平穏な暮らしを夢見ていました。 しかし、死んだら善人も悪人も一緒に天国に行くのでは困ります。 不公平にならないように、最後の審判という発想が生み出たものだろうと考えられます。 神様は、最初から最後までしっかり一人で見守っていて、神様は陰では悪さをした人にも騙されないでほしい、 神様によって審判が違ったら大変だという考え方から、一神教となったのでしょう。 しかし、一神教は攻撃的で、農耕社会の多神教を次々と武力で制圧していったのでした。 宗教は多神教から一神教のイスラム教の支配下になっても、農業を営む生活自体は変わりませんので、一神教に制圧されても、徐々に人々は多神教に戻っていったのでした。 「死者の町」はエジプトにピラミッドの時代からもともとあった農耕社会の多神教文化が、現れた町と言えるでしょう。
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